世界各国の国立美術館の多くは王侯貴族のコレクションが礎となっているが、ナショナル・ギャラリーは一市民のコレクションから始まった希有な美術館だ。1824年、ロイズ保険組合の発展に寄与した銀行家ジョン・ジュリアス・アンガースタイン(1823年没)の貴重なコレクションが売りに出されると、イギリスはコレクションを買い取り国立美術館の創立を宣言する。イギリス初の国立美術館は、一市民の遺した38点のコレクションから誕生したのだ。
わずか38点のコレクションからスタートしたナショナル・ギャラリーは、その後の蒐集を経て、現在では2,300点以上の貴重な作品を所蔵しそのほとんどが常設展示されている。その内容は世界最高のレベルに匹敵する。所蔵作品はイタリア・ルネサンス絵画から、17世紀のフランドル、オランダ絵画、イギリスやフランス印象派はもちろん近代絵画にも及び、館内をひとめぐりするだけで西洋美術の歴史を知ることができる。レンブラントの多くの良作や、19世紀イギリスを代表する風景画家ターナーが遺した作品を多数所蔵。1870年に普仏戦争を逃れロンドンにやって来たモネは、ナショナル・ギャラリーでターナーの作品と出会い、大きな衝撃をうけたという。そのほか、フランス摂政オルレアン公によるコレクションのうち25点を所蔵、フランスの画家ドガの死後、その貴重なコレクションのなかから、自作はもちろんマネやゴーギャンらの歴史に残る傑作群を入手した。
当初はペル・メル街100番地の旧アンガースタイン邸に開設されたが、1838年に現在のトラファルガー広場に移転。交通の便もよく、あらゆる階層の人が容易にアクセスできるロンドンの中心地といえる好立地だ。空気のきれいなロンドン近郊への移転も検討されたが、「どんな人でも気軽に来られる場所にあるべき」という方針のもと現在の場所に落ち着いた。ちなみにトラファルガー広場では2011年7月に映画『ハリー・ポッターと死の秘宝PART2』のワールドプレミア上映が行われたが、本作では「ハリー・ポッターの時はセインズベリ棟が単なる見物場所に利用された」と館長によって苦々しく語られている。
ナショナル・ギャラリーの常設展はすべて無料で見ることができる。その運営は寄付によって成り立っており、館内には募金箱が設置されている。イギリス国民だけではなく、世界各国から観光客が訪れ、世界美術館・博物館の動員ランキングでは常にトップクラスにある。また市民に向けた様々なイベントが企画され、無料のワークショップやガイドツアーが定期的におこなわれているほか、5歳未満の子供を対象にしたお話会も催されている。階級や貧富の差を超え、すべての市民が来館できる美術館を目指すナショナル・ギャラリーは、まさに万人に開かれた美術館だ。