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1839年1月19日、南仏エクス=アン=プロヴァンスの裕福なブルジョワ家庭に生まれる。銀行家であった父の希望もあって大学では法律を学ぶが、画家への夢を実現すべく、1861年、ゾラのいるパリへ。マネやモネ、ピサロなども在学したシャルル・シュイスの画塾で絵画の基礎を学ぶ一方、ドラクロワ、クールベ、そしてヴェロネーゼらの影響を受ける。だが、パリではうまくゆかず、早々に帰郷。それ以降、エクスとパリを行ったり来たりする生活を送る。この時期、マネのほか、若き印象派の画家たち──ピサロ、モネ、ルノワールらとも近しくなり、彼らと行動をともにするようになる。1874年の第1回印象派展をきっかけに印象派絵画が次第に受け入れられ始めるが、セザンヌは次第に彼らとは距離を取るようになり、故郷のエクスに拠点を移した1880年代にはその隔たりは決定的なものとなる。この頃から独自の画風を目指して苦闘を続け、やがて1890年代頃から若い画家たちの関心を集めるように。1895年、画商ヴォラールがパリで開いた個展によってセザンヌの名はようやく一般にも知られるようになった。ゴッホ、ゴーギャンをはじめ、ピカソ、マティス、ブラックら、20世紀絵画の立役者たちの多くがセザンヌを師と仰ぎ、その絵から大きな影響を受けていった。1906年10月23日に生地のエクスにて亡くなる。
1840年4月2日、パリに生まれる。父親はイタリアから移民としてやって来た技師で、母はフランス人だった。父親の仕事の都合でエクス=アン=プロヴァンスに幼少の頃に引っ越してくるが、早くに父を亡くし、苦労の多い少年時代を過ごす。コレージュ(中学校)ではよくいじめられていたが、セザンヌの友情を得て救われる。この頃より文学に興味を抱き始め、小説家を志すようになる。1858年、パリに戻り、アシェット出版で働くなかでマネの知己を得る。1864年、17歳だったアレクサンドリーヌ(ガブリエル)と出逢い、恋に落ちる。そして1867年、『テレーズ・ラカン』を完成させ、一躍、筆名を上げる一方、マネをはじめ、のちの印象派たちを擁護する記事を定期的に「L'événement」紙などに書くようになる。1869年、全20巻構成による大著「ルーゴン=マッカール叢書」を構想し、その第1巻となる『ルーゴン家の誕生』を1870年に完成、その後、『居酒屋』(76)、『ナナ』(79)、『ジェルミナル』(85)など、第二帝政から第三共和制下のパリの市井の人々を描く壮大な物語として完成させ、自然主義文学の金字塔を築いた。また、1894年のユダヤ人将校ドレフュスをめぐる疑獄事件ではドレフュス側に立ち、『我弾劾す』と題した記事を著し、物議を醸した。1902年9月29日、パリにて亡くなる。