英国最高のロマン主義の風景画家。1775年4月23日、ロンドン、コヴェント・ガーデンの理髪店を営む一家に生まれる。1783年、8歳のときに、5歳の妹メアリー・アンを亡くす。この頃から母親が精神を病み、母親との関係が生涯の女性関係に大きく影響したとみられる。1789年、14歳でイギリス美術界最大の権威を誇るロイヤル・アカデミーへ入学。風景画の制作に打ち込む。とくに海辺や山岳地帯の光景に傾倒し「旅の画家」として各地を飛び回る。1799年、24歳でロイヤル・アカデミーの準会員に選出。同時期、サラ・ダンビーと交際を開始。のちに2女をもうけるが、生活をともにすることはなかった。1802年、史上最年少の27歳でロイヤル・アカデミーの正会員に選出。1804年、母親が精神病院で亡くなる。1807年、ロイヤル・アカデミーの遠近法教授に就任。1811年から講義を行う。1829年、最大の理解者であった父ウィリアムが他界。同じころ、船乗りの妻ソフィア・ブースの家に間借りし、まもなく未亡人となったソフィアと交際を開始するが、その関係は頑なに隠された。1845年、70歳でロイヤル・アカデミーの院長代理を務めたが、晩年、伝統的な表現方法を大きく逸脱した独自の画風は批評の的となることも多く、自身の作品を手元に置くことを好んだ。1851年12月19日、チェルシーのソフィアの家で静かに息を引き取る。享年76歳。遺言で、専用のギャラリーを設けることを条件に自分の全作品を国家に寄贈するとともに、自らの作品2点を尊敬するクロード・ロランの作品と並べて掛けることを望んだ。現在、テート・ブリテン美術館の一角にターナー専用の展示室が増設され、ナショナル・ギャラリーには《カルタゴを建設するディド》と《霧のなかを昇る太陽》が、クロードの作品と並べて展示されている。


ヨーロッパの他の国々、とりわけ隣国フランスに大きく後れを取っていたイギリス美術の振興を目的として、1768年に創設された。ターナーは14歳でアカデミー付属の美術学校に入学し、まもなく展覧会にも出品しはじめ、1802年には史上最年少の27歳でアカデミーの正会員に選ばれている。彼にとってロイヤル・アカデミーは、芸術上のよりどころとしてなによりも大切な存在であり、生涯にわたってさまざまなかたちで組織の運営にも深く携わった。1807年には弱冠32歳でアカデミーの遠近法教授に就任し、講義の準備にも熱心に取り組んだ。毎年夏季に開催されるアカデミーの展覧会は、アーティストたちにとって、自作品を披露し、ライヴァルと競い合い、パトロンを獲得するためのもっとも重要な機会であった。
ターナーは秘密主義の傾向があり、私生活はもとより、制作途中の姿を他人に見られるのも嫌がったという。しかし唯一の例外があった。ロイヤル・アカデミーをはじめとする展覧会では、オープニングに先立つ数日間、会場で出品作品に最後の手直しを加えることが許されていた。ターナーもこの機会を最大限に活用し、ときにはほとんどなにも描かれていないカンヴァスをもちこみ、その場でみるみるうちに仕上げていったと伝えられている。このような即興的なアクションは、自身の比類ない創造力を見せつけるためであったとも、あるいは周囲に掛けられている他の画家たちの作品を検分したうえで、より目立つ表現を求めたためとも考えられている。映画のなかに出てくるコンスタブルとの一騎打ちは、もっともよく知られたエピソードである。
ターナーにとって、旅は創作上のインスピレーションを得るために不可欠のものであった。十代の半ばに初めてイングランド西部にスケッチ旅行に出かけて以来、ほぼ毎年のように夏は各地を旅して回り、冬はアトリエで制作に没頭するというサイクルができあがった。画業の前半は、フランスとの戦争によって国外への旅行が阻まれていたため、もっぱらイギリス国内の風景を訪ねて歩いたが、戦争が終結(1815年)したのちは、ヨーロッパ大陸にも広く足をのばした。最後の外国旅行は1845年、ターナーが70歳のときである。旅先で描きためたスケッチは、今でいうデータベースのような役割を果たし、ときには10年20年も経ってから絵画制作に利用されることもあった。画家の没後、アトリエには300冊ものスケッチブックが残されていた。
旺盛な好奇心をそなえていたターナーは、美術の領域ばかりでなく、同時代の社会におけるさまざまな事象にも絶えず関心を注いでいた。この時期に大きく進展した科学やテクノロジーについても例外ではない。彼の作品のうえには、ニュートンの光学理論やゲーテの色彩論にインスピレーションを得た表現や、従来の馬車や帆船に取って代わりつつあった蒸気船や蒸気機関車などのモティーフを見て取ることができる。映画のなかに出てくる独学の数学者にして天文学者のメアリー・サマヴィルをはじめ、実際に科学者たちとも親しく交わった。晩年には、新しく登場した写真に強い興味を示し、そのメカニズムを熱心に学び取ろうとしたという。
 
ターナーは1804年に、ロンドン市内のクィーン・アン街にある自宅にギャラリーを設け、一種のショールームとして自作品を並べた。公的な展覧会以外にも作品を見ることができる場を用意することで、より多くの顧客を得ようと考えたらしい。1822年には全面的に拡張し、映画にもあるとおり、アトリエに接する場所に、トップライトの天井と赤い壁紙に囲まれたギャラリーが完成した。もっとも、後年のターナーは作品を手放すことを望まなくなり、とくにチェルシーの隠れ家に拠点をもってからは、自宅は放置され荒れるままとなった。最終的には、彼自身の遺言によって、アトリエやギャラリーにためこまれていた絵はすべて国家に寄贈され、現在は「ターナー遺贈コレクション」としてロンドンのテート・ブリテン美術館に所蔵されている。
ターナーは、デビュー間もないころからそのたぐいまれな技量が注目を集め、若くして画家としての地位と名声を確立した。しかし画業の後半になると、次第に自然主義的な表現を逸脱し、大胆な色彩と奔放な筆遣いで自由に画面を作り上げていくようになる。人々はそのあまりの斬新さに当惑し、しばしば痛烈な批判を浴びせかけた。のちの抽象絵画を思わせるような破天荒な画面は、カレーだのロブスターのサラダだのといった食べ物になぞらえて揶揄されることが多かった。そのような状況のなかでターナー擁護に立ち上がったのが、映画にも登場する若き日のジョン・ラスキンである。彼は美術評論家として、『近代画家論』全五巻をはじめ、数多くの著述を通してターナーの芸術を熱っぽく称賛した。
早くから画家としての才能を認められていたターナーは、熱心なパトロンたちにも恵まれた。ターナーが描いた作品のなかには、彼らから注文を受けて制作されたものも少なくない。映画に登場する第三代エグルモント伯爵は、なかでもアーティストたちに対する寛大な支援で知られ、サセックス州にある屋敷ペットワース・ハウスに彼らを招待して暖かくもてなした。ターナーも1827年から伯爵が没する1837年まで、たびたびペットワースに滞在し、開放的な雰囲気のなかでのびのびと制作した。ペットワース・ハウスは今日もなお当時のままの姿をとどめ、エグルモント伯爵がコレクションしたターナーの作品20点とともに一般に公開されている。
 
 
ターナーは生涯結婚することはなかった。精神を病んだ母親(1804年に入院先の病院で死去)に家族が翻弄されてきたことが、彼に家庭をもつことをためらわせたとも考えられている(その分、父親との絆はきわめて深く、彼の死〔1829年〕はターナーに大きな喪失感をもたらした)。若いころは、音楽家の未亡人であった年上のサラ・ダンビーと愛人関係にあり、おおやかけに認めることはなかったものの女の子を二人もうけた。サラの姪にあたるハンナ・ダンビーが、家政婦として40年以上ものあいだクィーン・アン街のターナーの家を切り盛りし、遺言によって彼の作品の管理も託された。とはいえターナー自身は、海辺の町マーゲイトで知り合ったソフィア・ブースに慰安を見いだし、70歳を越えるころからは、彼女がテムズ川沿いのチェルシーに借りた家で夫婦同然の生活を送り、そこで最期を迎えた。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
Joseph Mallord William Turner  (1775-1851)イギリス
英国最高のロマン主義の風景画家。1775年4月23日、ロンドン、コヴェント・ガーデンの理髪店を営む一家に生まれる。1783年、8歳のときに、5歳の妹メアリー・アンを亡くす。この頃から母親が精神を病み、母親との関係が生涯の女性関係に大きく影響したとみられる。1789年、14歳でイギリス美術界最大の権威を誇るロイヤル・アカデミーへ入学。風景画の制作に打ち込む。とくに海辺や山岳地帯の光景に傾倒し「旅の画家」として各地を飛び回る。1799年、24歳でロイヤル・アカデミーの準会員に選出。同時期、サラ・ダンビーと交際を開始。のちに2女をもうけるが、生活をともにすることはなかった。1802年、史上最年少の27歳でロイヤル・アカデミーの正会員に選出。1804年、母親が精神病院で亡くなる。1807年、ロイヤル・アカデミーの遠近法教授に就任。1811年から講義を行う。1829年、最大の理解者であった父ウィリアムが他界。同じころ、船乗りの妻ソフィア・ブースの家に間借りし、まもなく未亡人となったソフィアと交際を開始するが、その関係は頑なに隠された。1845年、70歳でロイヤル・アカデミーの院長代理を務めたが、晩年、伝統的な表現方法を大きく逸脱した独自の画風は批評の的となることも多く、自身の作品を手元に置くことを好んだ。1851年12月19日、チェルシーのソフィアの家で静かに息を引き取る。享年76歳。遺言で、専用のギャラリーを設けることを条件に自分の全作品を国家に寄贈するとともに、自らの作品2点を尊敬するクロード・ロランの作品と並べて掛けることを望んだ。現在、テート・ブリテン美術館の一角にターナー専用の展示室が増設され、ナショナル・ギャラリーには《カルタゴを建設するディド》と《霧のなかを昇る太陽》が、クロードの作品と並べて展示されている。


ヨーロッパの他の国々、とりわけ隣国フランスに大きく後れを取っていたイギリス美術の振興を目的として、1768年に創設された。ターナーは14歳でアカデミー付属の美術学校に入学し、まもなく展覧会にも出品しはじめ、1802年には史上最年少の27歳でアカデミーの正会員に選ばれている。彼にとってロイヤル・アカデミーは、芸術上のよりどころとしてなによりも大切な存在であり、生涯にわたってさまざまなかたちで組織の運営にも深く携わった。1807年には弱冠32歳でアカデミーの遠近法教授に就任し、講義の準備にも熱心に取り組んだ。毎年夏季に開催されるアカデミーの展覧会は、アーティストたちにとって、自作品を披露し、ライヴァルと競い合い、パトロンを獲得するためのもっとも重要な機会であった。
ターナーは秘密主義の傾向があり、私生活はもとより、制作途中の姿を他人に見られるのも嫌がったという。しかし唯一の例外があった。ロイヤル・アカデミーをはじめとする展覧会では、オープニングに先立つ数日間、会場で出品作品に最後の手直しを加えることが許されていた。ターナーもこの機会を最大限に活用し、ときにはほとんどなにも描かれていないカンヴァスをもちこみ、その場でみるみるうちに仕上げていったと伝えられている。このような即興的なアクションは、自身の比類ない創造力を見せつけるためであったとも、あるいは周囲に掛けられている他の画家たちの作品を検分したうえで、より目立つ表現を求めたためとも考えられている。映画のなかに出てくるコンスタブルとの一騎打ちは、もっともよく知られたエピソードである。
ターナーにとって、旅は創作上のインスピレーションを得るために不可欠のものであった。十代の半ばに初めてイングランド西部にスケッチ旅行に出かけて以来、ほぼ毎年のように夏は各地を旅して回り、冬はアトリエで制作に没頭するというサイクルができあがった。画業の前半は、フランスとの戦争によって国外への旅行が阻まれていたため、もっぱらイギリス国内の風景を訪ねて歩いたが、戦争が終結(1815年)したのちは、ヨーロッパ大陸にも広く足をのばした。最後の外国旅行は1845年、ターナーが70歳のときである。旅先で描きためたスケッチは、今でいうデータベースのような役割を果たし、ときには10年20年も経ってから絵画制作に利用されることもあった。画家の没後、アトリエには300冊ものスケッチブックが残されていた。
旺盛な好奇心をそなえていたターナーは、美術の領域ばかりでなく、同時代の社会におけるさまざまな事象にも絶えず関心を注いでいた。この時期に大きく進展した科学やテクノロジーについても例外ではない。彼の作品のうえには、ニュートンの光学理論やゲーテの色彩論にインスピレーションを得た表現や、従来の馬車や帆船に取って代わりつつあった蒸気船や蒸気機関車などのモティーフを見て取ることができる。映画のなかに出てくる独学の数学者にして天文学者のメアリー・サマヴィルをはじめ、実際に科学者たちとも親しく交わった。晩年には、新しく登場した写真に強い興味を示し、そのメカニズムを熱心に学び取ろうとしたという。
ターナーは1804年に、ロンドン市内のクィーン・アン街にある自宅にギャラリーを設け、一種のショールームとして自作品を並べた。公的な展覧会以外にも作品を見ることができる場を用意することで、より多くの顧客を得ようと考えたらしい。1822年には全面的に拡張し、映画にもあるとおり、アトリエに接する場所に、トップライトの天井と赤い壁紙に囲まれたギャラリーが完成した。もっとも、後年のターナーは作品を手放すことを望まなくなり、とくにチェルシーの隠れ家に拠点をもってからは、自宅は放置され荒れるままとなった。最終的には、彼自身の遺言によって、アトリエやギャラリーにためこまれていた絵はすべて国家に寄贈され、現在は「ターナー遺贈コレクション」としてロンドンのテート・ブリテン美術館に所蔵されている。
ターナーは、デビュー間もないころからそのたぐいまれな技量が注目を集め、若くして画家としての地位と名声を確立した。しかし画業の後半になると、次第に自然主義的な表現を逸脱し、大胆な色彩と奔放な筆遣いで自由に画面を作り上げていくようになる。人々はそのあまりの斬新さに当惑し、しばしば痛烈な批判を浴びせかけた。のちの抽象絵画を思わせるような破天荒な画面は、カレーだのロブスターのサラダだのといった食べ物になぞらえて揶揄されることが多かった。そのような状況のなかでターナー擁護に立ち上がったのが、映画にも登場する若き日のジョン・ラスキンである。彼は美術評論家として、『近代画家論』全五巻をはじめ、数多くの著述を通してターナーの芸術を熱っぽく称賛した。
早くから画家としての才能を認められていたターナーは、熱心なパトロンたちにも恵まれた。ターナーが描いた作品のなかには、彼らから注文を受けて制作されたものも少なくない。映画に登場する第三代エグルモント伯爵は、なかでもアーティストたちに対する寛大な支援で知られ、サセックス州にある屋敷ペットワース・ハウスに彼らを招待して暖かくもてなした。ターナーも1827年から伯爵が没する1837年まで、たびたびペットワースに滞在し、開放的な雰囲気のなかでのびのびと制作した。ペットワース・ハウスは今日もなお当時のままの姿をとどめ、エグルモント伯爵がコレクションしたターナーの作品20点とともに一般に公開されている。
ターナーは生涯結婚することはなかった。精神を病んだ母親(1804年に入院先の病院で死去)に家族が翻弄されてきたことが、彼に家庭をもつことをためらわせたとも考えられている(その分、父親との絆はきわめて深く、彼の死〔1829年〕はターナーに大きな喪失感をもたらした)。若いころは、音楽家の未亡人であった年上のサラ・ダンビーと愛人関係にあり、おおやかけに認めることはなかったものの女の子を二人もうけた。サラの姪にあたるハンナ・ダンビーが、家政婦として40年以上ものあいだクィーン・アン街のターナーの家を切り盛りし、遺言によって彼の作品の管理も託された。とはいえターナー自身は、海辺の町マーゲイトで知り合ったソフィア・ブースに慰安を見いだし、70歳を越えるころからは、彼女がテムズ川沿いのチェルシーに借りた家で夫婦同然の生活を送り、そこで最期を迎えた。
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